出ヶ原和紙について

出ケ原紙は西会津町出ケ原地区を中心に作られ、江戸時代には出ケ原杉原が会津藩の公文書用紙に使われ、それ以外にも地紙としての出ケ原紙が多くの集落で作られ、地域では出ケ原といえば紙の代名詞とされていたといわれています。昭和三十年代に生産が途絶えたこの和紙を、故佐藤昭悦氏の流れを引き継ぎ、滝澤徹也氏と地元有志が復活させました。山から自生の楮(コウゾ)の刈り取りから、蒸し剥ぎ、すべ取り(皮むき)、煮熟、ちりより、手打ち叩解、紙漉き、板干しなどの多くの工程を、伝統的な方法ですべて手作業で行っています。

西会津町史には以下のような記述があります。(西会津町史第6巻上 P.172~176より引用)

出ヶ原紙
出ヶ原は、「出原紙」の生産地として、古くから知られ、「出ヶ原」といっただけで紙の代名詞にもなっているほどである。貞享二年(1685)の『川沼郡野沢組百姓民間営風俗改書上申帳』から、近世初期の出ヶ原における紙生産の様子をうかがうことができる。

(中略)

この書き上げによると、年貢として紙を漉き、また藩の公用文書も出ヶ原紙を使用し、それらを出ヶ原より上納していることがわかる。紙漉きには良質の水が必要である。出ヶ原には、周三尺の「大清水」という清水のでる場所があり、この水を利用して紙を製すと、『新編会津風土記』にも記されている。この出ヶ原での紙漉きは、昭和三十年代の高度経済成長期まで行われてきたが、現在は全く廃絶してしまった。紙漉きの伝統をもつ西会津町は、他町村に比し、遅くまでその技術を伝えてきた。……(省略)

(中略)

出ヶ原で漉いていた紙は、中判紙であり、これを俗にイズガハラという。漉いた紙は、ためておいて春先に売る。仲買人が購入してゆき、坂下・若松などに行き「出ヶ原紙」として評判であった。『新編会津風土記』にも、「其品杉原紙に比すれは稍及はされとも堅強にして久に耐ふ」と賞している。その伝統技法は、廃業するまで伝授されてきたといえる。

また、『新編会津風土記』には出ヶ原の名称の由来についての記述があります。(新編会津風土記 巻之94 河沼郡之7 野沢組 より引用 新編会津風土記は会津若松市デジタルアーカイブより閲覧できます)

出原村
昔何人ニカ伊豆國ヨリ来テ紙ヲ漉クコトヲ教へシ故伊豆原村ト云シヲ後今ノ字ニ改メント云……(省略)

土産
紙 其品杉原紙ニ比スレハ稍及ハザレトモ堅強ニシテ久ニ耐フ本組ノ諸村ニテ製スルモノ多ケレトモ初メ此村ヨリ漉出セシ故総テ出原紙ト称ス此村ニテ今ハ杉原紙ヲモ製出ス

上記の資料より、出ヶ原の由来が伊豆國(いずのくに)であること、その際に紙漉きが伝わったことが記されています。このように、古くから出ヶ原は有数な和紙の生産地であり、かつ良質な和紙を生産していたことがうかがえます。